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反対派の精神構造と思考構造
反対派のロジック(1)
あまりに疑似科学的な

選択別姓の反対論は、根拠がいちじるしくとぼしいにもかかわらず、
特定の人たちによって、かたくなに信じられているものです。
自分たちの妄想でかためた虚構の主張を正当化するために、
どのようなロジックを、彼らは展開するのでしょうか?

選択別姓の反対論も、一種の疑似科学、都市伝説と言えるものです。
彼ら反対論者たちは、自説にしがみつこうとして、
ほかの疑似科学の信者(ビリーバー)と、同じ特徴を示すことが多く、
疑似科学一般について知られていることは、
そのまま彼らにも、あてはまることがたくさんあります。


反対論者たちが、「おはこ」としている主張に、
「夫婦別姓の家庭では、家族の一体感が損なわれる」があります。
さらにここから、離婚が増えるとか、子どもがいじめられるとか、
子どもが非行に走りやすくなる、といったことが出てくるようです。
ところがいつも、彼らは「家族がばらばらになる」
「子どもがかわいそう」と、あたまから決めつけるだけで、
具体的な根拠(統計資料など)を、しめしたためしはないのでした。

古くから、夫婦別姓が定着している国(スペインなど)を見ても、
20世紀になって家族法を改めて、選択別姓を採用した国
(欧米の民主主義国のほとんど)を見ても、あるいは日本で現在、
事実婚や国際結婚などで、夫婦別姓にしている家庭を見ても、
反対論者の言うようなことが起きている事態は、見出せないです。

「崩壊する家庭」のシナリオは、反対論者たちのいだいている、
「正しい家庭」幻想が作りだした、フィクションにすぎないです。
ところが、それにもかかわらず、反対論者たちのあいだでは、
かたくなに信じられ、いかなる根拠や事実、もしくは、
実証的な検証にもまして、説得力のあることみたいです。
 
こうした、現実や根拠を無視した、思いこみによる教条的決めつけが、
実証的な態度より、優先されるようになったら、
そこから疑似科学がはじまるのだろうと、わたしは思います。
反対論者たちを、「ビリーバー(信者)」と呼ぶに、
ふさわしいものにしていると言えるでしょう。


自分からは、ろくな根拠を示さない反対論者たちですが、
推進派が出す根拠に対しては、なにかと難くせをつけてきます。
その統計は偏っているだとか、この世論調査は恣意的だとか、
どんな根拠を見せても、もっと信頼できるデータを出せと言って、
絶対に納得しないのです。

こちらは苦労して探し出しているのに、ずいぶんとお気楽なことです。
「相手の根拠は信用しないで、それ以上のものを
出すことを要求するのに、自分はそれ以下の根拠も出さない」
というのは、疑似科学者がよく使う手のひとつです。

反対論者たちは、自分たちの主張には、根拠があると思わせたくて、
存在しない事実やデータが、存在すると言ってのけることがあります。

たとえば、「スウェーデンでは、選択別姓を導入したとたん、
子どもの非行や犯罪が増えた、ということをしめす統計がある」
などと主張する、大学の先生がいらっしゃります。
これについては、長年検察官として少年犯罪にかかわってきた、
佐々木知子議員が、「そんな統計など見たことない」と、
はっきりコメントしています。(『婦人公論』03年2月号。)

大学教授の肩書きを持つ人でさえ、こんなでまかせを
言うくらいですから、一般の人たちは推してしるべしです。
「スウェーデンは選択別姓を導入している唯一の国だ」などと言って、
スウェーデンがいかに不幸な国かを、延々と語る人もいたりします。
いまや世界中のほとんどの国で、夫婦別姓の選択は認められています。
ちょっと調べれば、すぐでたらめとわかることを
平然と書いていられるその神経が、わたしには理解できないです。


また反対論者たちは、同姓強制には歴史的な裏付けがある、
などと言って、正当化を図ることもあります。
よく言われるのは、夫婦同姓は日本古来の伝統、というものです。

日本の家族法は、明治時代に、ナポレオン民法典にならったもので、
このとき夫婦同姓が、法律ではじめてさだめられました。
じつは伝統でもなんでもない、まったく舶来品にすぎないものです。
自分が産まれたときには、日本では夫婦同姓が定着しているので、
いにしえのころからそうだったとでも、思い込んでいるのでしょう。
これも「事実を無視した教条的決めつけ」の一例と言えます。


ほかに、同姓強制には、自然科学的な根拠があると言うこともあります。
簡単には、「人間の男性と女性とで、社会的役割に差があるのは、
生物としての本能によるものであり、生得的なものである。
男は外で働き、女は家庭を守るのもしかりで、苗字は外の名前だから、
妻が改姓して夫の苗字を名乗るのだ」となるようです。

じつは、「男は外で働き、女は家庭を守る」というのは、
近代以降、有産階級から定着してきた、ライフスタイルです。
まったく文化的なもの(ジェンダー)で、本能でも生得的でもないです。

ひどくなると、本能にしたがった生活をさせるために、
学校教育などで学習させるべきだ、などと言う反対論者もいます。
産まれてから学習したことは、「獲得形質」と言って、
遺伝するはずないことが、現在ではわかっています。
「獲得形質は遺伝する」は、いまは疑似科学とされていることですが、
ほかの疑似科学を援用するのも、疑似科学の特徴のひとつです。

この裏返しとして、学校教育を通して本能を破壊させようと、
フェミニストや共産主義者がたくらんでいる、などと言うこともあります。
こうした「陰謀」がなされた、という根拠はあるはずもなく、
そもそもできないことですから、まったくの妄想にすぎないです。
疑似科学の信奉者は、こうして「陰謀論」に陥ることもあります。

「別姓にしたいのは、夫の苗字をもらうのがいやだからだ」と
決めつけて、「産まれたとき親から名前をもらうのに、
それに反対しないのはおかしい」などと言う、反対論者もいます。
しかし、別姓にしたい本当の動機は、生来の苗字を、
変えたくないからであって、夫の苗字がほしくないからではないです。
この反対論者は反対のために、相手の主張を曲解しているのでしょう。

また現代の日本で、導入しようとしている制度は選択制ですが、
「別姓派の真のねらいは、全員に別姓を強制することだ」などと、
おどろおどろしたことを言う、反対論者もいたりします。
このように、相手の主張をねじまげて否定するのも、
疑似科学信者がよく使う手段のひとつです。

選択制である以上、他人に対する干渉がなく、反対しにくいので、
このような言いがかりを、つけるのだろうと思います。
あるいは、自分たちが、相手に対して強制的なことをしているので、
相手もおなじようにしてくるかもしれないという、
疑心暗鬼にでも、おちいっているのかもしれないです。


夫婦別姓だと家族の一体感がなくなるという、反対論者に対して、
推進派の中には、長いあいだ原則別姓を続けてきた、
中国や韓国を引き合いとして、例に出すことがあります。
そうすると、くだんの反対論者は「中国、韓国の別姓は
儒教思想の家制度によるもので、女は家族に入れないという
発想からきたものだ」などと反論するのが相場のようです。

ところが、もともとは、夫婦別姓と家族の一体感の関係を、
論じていたのですから、ここで検討することは、
「中国や韓国では、別姓のせいで離婚や非行が多いか」のはずです。

それにもかかわらず、儒教のことが出てくるのは、
これが、女性の自立やアイデンティティの確保という、
現代日本のモチベーションと、まっこうから対立するので、
反対派としては、賛成派の反論を封じやすいからでしょう。
もともと、女性の権利にそれほど理解がなさそうなのに、
こんなときだけ強調するのも、ご都合主義的なお話だと思いますが、
かかる反対論者は、論点のすりかえをしていることになります。

反対論者たちは、戸籍法の改正に負担がかかることを理由に、
選択別姓の導入は反対だ、などということがあります。
しかし、戸籍法は手続き法であり下位法ですから、
上位法の民法の規定が、優先されることになっています。
戸籍法にもとづいて、民法の規定や解釈がなされるのは、
すべて誤りであり、反対論者たちの考えかたは、
法学の基礎的な知識に反するものとなっています。

また、日本が民法改正を行なう要件として、女子差別撤廃条約があります。
反対論者たちは、この条約がお気に召さないようで、
日本が批准したのは、そのときの外交官のきまぐれだとか、
批准しないと恥ずかしいからそうしたのだ、などと言うことがあります。
(条約に批准しないと、女性差別の国と見られて「恥ずかしい」、
という意識は、反対論者たちにもあるようですね。)

現在の日本では、外交官による批准は「仮批准」であり、
その前か後のいずれかで、国会で審議にかけて、
正式に批准するかどうかを、決めるようになっています。
特定個人のきまぐれでは、批准できるはずもないものです。
一国の運命を左右しかねない条約に、そんなに簡単に批准できたりしたら
相当に危険なことくらい、常識的にわかりそうなものです。

こうした、その分野のすでに確立した基礎知識や、
一般的、普遍的な常識の無視や軽視というのも、
疑似科学の信者たちに、よく見られる特徴のひとつです。


選択別姓の導入によって、戸籍のフォーマットを作り直すのに、
コストがかかりすぎることを、とかく強調する反対論者ですが、
彼らが「対案」だと言う、通称使用制案については、
必要になるコストについては、反対派たちはなにも言わないのです。
通称制導入によるコストは、ほかに改正する必要のある法律が
約400もあるなど、膨大になると言われていますが、
選択制導入によるコストなど、それからしたらわずかなものです。

また夫婦別姓だと、子どもの苗字をどちらにするかが
決められなくてトラブルになる、などと言うこともあります。
しかし、同姓を選ぶとき、夫婦の苗字をどちらにするか決められず、
もめるケースについては、まったく無視します。
(当然女性が改姓するから、トラブルなどないとでも思っているのかな?)

実際には、事実婚の夫婦を見ていても、別姓夫婦が子どもの
苗字をどちらにするかでもめることは、あまりないようです。
そして、同姓を選ぼうとして、夫婦のあいだで苗字が決まらず
トラブルになることは、よくあることです。
(よくあるから、選択別姓の導入が求められるのですが...)
 
制度導入のコストや、苗字を選ぶときの対立についてなど、
ありそうもないことばかり、ことさらに強調して、
実際に起きていることは、無視黙殺を決め込むもののようです。
ようするに反対論者たちは、自分たちに都合のよい
ダブルスタンダード(二重規範)をふりかざすのですが、
これまた疑似科学者にありがちな手のひとつとなっています。

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