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反対派の精神構造と思考構造
「慎重派」と称する反対派

反対論者というのは、自分たちを「反対派」と言わず、
「慎重派」と自称する人が、どういうわけか多くなっています。
たとえば2002年に、山谷えり子議員の反対声明に触発されてできた、
民主党の反対派の会も「夫婦別姓を慎重に考える会」と称していました。

当人たちには、こだわりがあるようで、「反対派」と呼ぶと、
「そうじゃなくて慎重派だ」と、訂正してくる人もいるくらいです。
とはいえ、主張の中身は、反対派とどうも違わないし、
ことばを変える必然性がよくわからなかったりします。

「反対」というと、未来永劫そのままのようですが、
「慎重」というと、状況いかんによっては、考えをあらためることを、
保留しているようで、好印象だというのでしょうか?
それとも、自分たちは用心深く、ことを考えているとアピールし、
さらには、賛成している人たちのほうが、
思慮がたりないような、印象を与えようというのでしょうか?

この期におよんで、選択別姓に反対するなどナンセンスと、
内心では思っていて、「反対」というとそれだけで、
おかしな人と見られることを、懸念しているのかもしれないです。


やっていることは、ふつうの(?)反対派とおなじですから、
このコーナーでお話しているように、はじめに結論ありきで、
聞く耳持たず頑迷きわまりなく、とんでも理論を援用し、
推進派に対して攻撃的で、反対のための手段を選ばなかったりします。
おおよそ「慎重」が聞いてあきれる、独断専行でなりふりかまわない、
精神構造にして思考構造なのは、言うまでもないと思います。

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