トップページ反対派の精神構造と思考構造

反対派の精神構造と思考構造
懐柔策は有効か?
じつは危険な反対派擁護

「反対派たちが、かたくなに選択別姓導入の
反対を続けるのは、彼らを激しく批判するからである。
反対派の理解を得るには、きびしく責めたりせず、
彼らの考えを認めて、やさしく擁護することである」
選択別姓の推進派の中には、このように考える人たちもいます。

イソップの『北風と太陽』の寓話を、意識しているのでしょう。
反対派を批判するのは、「北風」の態度であり、
反対派をますます頑迷に反発させることになる。
自分たちから、彼らを積極的に理解しようとする、
「太陽」の態度こそ、反対派たちの心を開き、
彼らからの理解を得ることができる、という考えなのでしょう。

とくに民法改正、選択別姓を推進して来た人たちは、
「多様なカチカンを尊重しよう」という、スローガンが大好きです。
反対派たちをかばうことを、「カチカンの尊重」とすりあわせて、
積極的にそうしようと思っても、無理もないのかもしれないです。

わたしが、おつきあいしていた、インターネットの
選択別姓の市民団体の人たちのあいだでは、
この「太陽」の態度に、絶対的な人気がありました。
彼女たちは、選択別姓を実現させる、至上の方法と信じてもいました。


わたしに言わせれば、こういう「懐柔策」は、まちがいなく失敗します。
すくなくとも、推進派から、「やさしく理解をしめされた」ので、
「選択別姓の導入の必要性が、とてもよくわかりましたので、
あなたがたのカチカンを尊重して、これからは賛成します」と言って、
自分の考えをあらため、選択別姓導入の必要性を、
理解するようになったという「美談」は、どこにもないようですよ。

それどころか、推進派からなまじ擁護されることで、
かえって反対を続ける自信を、取り戻すことさえあります。
自分に反対した人たちと、同じ旗色を振る人たちに部分的にでも、
支持されるということが、自分の考えがきびしく否定された彼らの、
「よすが」になってしまうのだろうと思います。

反対派を擁護したけれど、うまくいかなかった、
というだけでしたら、まだいいほうです。
悪影響をおよぼすことさえも、あるくらいです。
とりわけ有害なのは、反対派に対して寛大と思われようとして、
反対派を批判する賛成派を、攻撃することでしょう。

反対派を批判するかたは、正当な根拠があってなのですが、
「反対派が不快で、彼らのカチカンを尊重できないから
攻撃している」などと言って、すりかえてきます。
相手は、あからさまな反対派なので、わかりやすく、
こうした「すりかえ」が、やりやすくもあるのでした。

根拠のある批判であれば、不寛容でもなんでもないはずです。
自分たちが、反対派のカチカンを尊重をしていると、
思われるのに、都合が悪いので、反対派への批判を
封じているほうこそ、真に不寛容だと思います。


こんなことが続けば、反対論者からの批判より、
「味方」のはずの推進派から、「背後からのあいくち」を
刺されるほうが、おそろしくなる人も出てきます。
そうなると、なにか言いたいことがあっても、
それをだまって、押し隠すようにもなってきて、
かえって雰囲気は不健全になっていきます。

ところが、反対派をかばう推進派たちは、
自分たちの信念が、ドグマのようになっているので、
「多様なカチカンの尊重」をしている、選択別姓の理解に
近付いていると、ますます自負を強めてしまうのでした。


当然なされるはずの、反対派への批判が封じられたり、
賛成派どうしで、つぶし合いをしたりすれば、
得をするのは反対派であることは、言うまでもないでしょう。
ずるがしこい反対派になると、積極的にこれを利用したりもします。

ものわかりのよさそうな態度で、推進派たちに近付き、
「自分は反対派だけど、異なるカチカンのあなたがたも、
理解をしめせないでもない」という印象を、推進派たちに与えます。
そうしておいて、自分を批判する賛成派が出てきたら、
「彼のほうは、われわれ推進派に理解をしめしているのに、
あなたは、彼のカチカンが尊重できない不寛容だ」と言って、
推進派たちに攻撃させて、批判を封じていただくというわけです。

かくして、くだんの反対派は、自分は直接なにもしなくても、
推進派たちがみずから、自分を批判する都合の悪い人を、
だまらせてくれるので、選択別姓の必要を理解するどころか、
ますます安心して、反対するようになっていくのでした。

選択別姓の反対派というのは、『北風と太陽』ではなく、
つぎのお話のほうが、あっていると思います。
「純情の功罪」
http://marineko.moo.jp/kiite16.htm
『・・・ある寒い日、ひとりの男が畑のあぜ道で 凍えている蛇をみつけました。 可哀相に思い、彼はぐったりと動かない蛇を懐に入れて温めてやります。 しばらくすると、蛇が元気を取り戻したのでしょう、 男の懐のなかで、もぞもぞ動き始めました。 男は、自分が蛇を助けてやったのだと気をよくしながら、 もっと元気になれと、なおも蛇を懐に抱いていました。 蛇の動きはだんだん活発になり、あっと思う間もなく男の脇腹に鋭い痛みが。 蛇に噛まれたのです。男は苦しみにもがきながら 自分のしたことを後悔しましたが、それも後の祭り、 その場に倒れ伏して死んでしまいましたとさ』
反対派とは、ここに出てくる蛇のような存在であり、 彼らを擁護しても、あとで噛まれるだけだと思います。 噛まれたくなかったら、凍えているからと言って、同情しないことです。 機会があれば、反対論者たちをひたすら批判をして、 反対する自信を、すこしずつ削いでいくほうが、よいのだと思いますよ。 ここまで、これをご覧になって、まがりなりには同意したかたでも、 この蛇のお話には、気分を害したかたは、多いのではと思います。 「寛容」とか、「他者の尊重」とかいう理念とは、 ある意味対極的な打算主義ですから、民法改正に関心を 持つかたにとって、おおよそ相容れないことだと思います。 そうでなくても日本人は、「どんな悪人でも、善行をほどこせば、 善行を返してくる」というお話が好きなもののようです。 「悪人はやっぱり汚ない」というお話は、受け入れ難いみたいです。 ところが、「悪人であっても、自分と同じように善行を返す」 というのは、相手も自分と同じようにするという、 「ミラー・イメージ」を重ねていると言えます。 いじわるな言いかたですが、「ミラー・イメージ」を描くのは、 相手が自分と異なることが理解できない、 「均一幻想」の産物だとも言えると思いますよ。 わたしが、いちばん許せないのは、かばった蛇に噛まれても、 (たいていは、かばった当人でなく、ほかのだれかにとばっちりが行く) だまって無視を決め込むことだと思います。 インターネットの選択別姓の市民団体の人たちは、 何度となく反対派にだまされ、都合よく利用されていました。 それでも、なんの反省もなく、「反対派に対して、 批判や敵視を続けても、反発されるだけでなにも得られない」 などと言い続け、じつは、反対派の理解を得られたことがなく、 悪影響ばかり与えている事実は、無視黙殺をするのでした。 これは、自分たちが、「悪い人間にだまされた大ばか者」と 思いたくないのも、ひとつにはあるのでしょう。 また彼女たちにとって、「多様なカチカンの尊重」というお題目は、 「絶対正しい」のであり、まちがいが起きるはずはないことに なっているため、実際に惨事があっても、 「なかったこと」にするしかないのだと思います。

「反対派の精神構造と思考構造」にもどる
トップにもどる


inserted by FC2 system