たんぽぽは、「多様な価値観の尊重」というお題目も苦手です。
なんて言うと、「なにをいきなり、たんぽぽは言い出すんだ?
そもそも、民法改正自体、個人の生きかたの選択を、
広げる運動ではないのか? それとも、内心では反対しているのか?」
なんて、おっしゃるかたも、出てくるのかな?
いやいや、間違っているとか、反対だとか言うのではないです。
でも、どこも間違っていない正論には、ちがいないけれど、
苦手意識のある概念も、なにかしらあったりしませんか?
(え、そんなのないって? だったら、あなたは幸運かも...)
「多様なカチカンの尊重」というお題目の、
なにがいやなのかと言うと、自分の利益の正当化のために、
ほかの人たちに、自分たちのことを、「尊重」させようとして、
これみよがしに持ち出す人たちがいることです。
こうした人たちは、自分から、ほかの人たちの価値観を、
尊重することは、あまりないようです。
「モラルを言う人ほと、他人にモラルを守らせるばかりで、
自分はモラルを守らない」と、おなじかもしれないです。
もっとあくどくなると、都合の悪い批判をされると、
「あなたは、私のカチカンを尊重できなくて、不寛容です!」
などと糾弾して、封じようとすることもあります。
適切な根拠をあげた批判であれば、不寛容なはずはなく、
それを拒否するほうこそ、不寛容で排他的なはずです。
ところが、「多様なカチカンの尊重」というお題目は、
こうした「すりかえ」を、しばしば容易にしてしまいます。
ついでですが、「なにが正しいとか、まともかなんて、
だれにも決められません。 カチカンはみな相対的であり、
あなたにとっておかしくても、私にとってはまともなのです」なんて、
「カチカンの相対性」を主張する人たちも、同じことをすることがあります。
これだけでしたら、まだましなほうだったりします。
「多様なカチカンを尊重している」と思われたいために、
自分では賛成してはいない特定の反対意見を意図的に擁護して、
そのかばいたい反対意見に対する批判は、正当なものであっても、
封殺しようとする人たちもいたりします。
この場合、ふたこと目には、「私もあの人の意見には反対で、
あなたと同じ意見ですよ」と、しらじらしく味方を主張しながら、
「でも、自分は異なる意見も尊重するので、
私はあの人の意見を否定できません」と言って、
批判封殺の「免罪符」にするのが、常套となっています。
さらに怖いことに、かばいたい反対意見に対して
的確な批判を続ける人に対して、とても攻撃的になることがあります。
通常の手段だけでは、対処できなくなると、
卑怯な手段を使ってでも、ねじ伏せてきます。
それでもだめとなると、強制的に排除することさえあります。
(電子掲示板でしたら、アクセス禁止など。)
ようするに、自分たちが、「多様なカチカンを尊重している」と、
思われるのに都合の悪い人は、徹底的に攻撃して排除するという、
本末転倒まで、行き着くことになります。
巡り合わせが悪かったのでしょうか、
たんぽぽは、こうした人たちと、たくさん関わってしまいました。
それで、「多様なカチカンの尊重」なんて聞かされると、
自己中心的で、不寛容で、攻撃的で、反知性的で、
偽善的なものを、かえって感じてしまうのでした。
(そこのあなた、とてつもなくひねくれていると、思ったでしょう?(笑))
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