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民法改正運動の展開 - 2002年後半
家裁認可制法案(3)

市民活動家たちの反応

インターネットの市民団体は、家裁認可制法案を、
どう受け止めたかというと、例によって全面的な支持でした。
かねてから、自民党推進派グループの意向に、
完全に添うのが、民法改正実現の最短コースだと
信じているのですから、とうぜんの反応と言えます。

彼女たちの中には、「例外制法案では、まだ反対派は
納得しないのではと、疑っていたけれど、
こんどの法案なら納得しそうだ。」と、
いよいよ積極的になるかたもいました。
野田氏たちに、なんとしてでも法案を実現しようという、
「強いネゴシエーション(交渉)の意志を感じる」と
言うかたまで、いらっしゃったくらいです。


そこで、わたしは、「こんど法案提出させてくれなかったら、
離党も辞さない!」というなら、強い意志だと思うけれど、
家裁認可制なんて、反対派にこびていて、
まだまだではないかな?と、訊いてみました。
すると、「離党を担保にしたら、ネゴシエーションの意味がなくなる」
という、わけのわからない答えが、返ってきたのでした。

現有議席を考えれば、野田氏たち推進派グループが、
ごっそり自民党から抜けてしまえば、民法改正の実現は確実です。
もちろん、民法改正のためだけに、
本当に離党するなど、ありえないでしょうし、
駆け引きとして持ち出すだけでも、リスクはありそうですが、
交渉の条件には、じゅうぶんなりえるはずです。

離党まで視野に入れられると、なにか具合が悪いのか、
あるいは、実際に離党したら、民法改正実現のために、
やはり野田氏たちを応援するのかと、わたしは、さらに訊いてみました。
すると「たんぽぽに十全に理解していただくのは、不可能に思える。」
「自分にとって、別姓法案は実現すべき課題なので、
理念やロジックについての意見交換は、
自分は興味がなくて、不適当だ。」などと、お茶をにごされました。

その「課題」の実現のために、離党しても支持するのかと、
訊いているのに、みょうな受け答えをするものです。
なにか、自民党政権に、こだわる必要でもあるのでしょうか?
(一連の議論を直接ご覧になりたいかたは、こちらをどうぞ。)


それでも、これだけなら、市民団体のかたたちの
反応が不可解だ、というだけのことだと思います。
野田議員たちのグループが、なんとしてでも
別姓法案を可決したいという、強い意志があるのだけは、
まちがいないのだと思いますが。

例外制のときは、賛成派、推進派の中からは、
めだった反対がなかったのですが、こんどの家裁認可制は、
きわだった反対意見も出てくるようになりました。
それで、インターネットの市民団体は、
そうした反対意見を、押さえ付ける必要が出てきたようです。

たとえば、朝日新聞の、「私の視点」に載った、
家裁案批判の投書(11月20日)も、代表世話人のかたが、
02年11月29日エントリの日記で、批判の標的としています。
http://www2.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=141423&log=20021129


家裁が関与することの違憲性について、ですが、
========
確かに憲法上は「婚姻は両性の合意のみによって成立する」からだ。
しかし、それを言えば「家裁の許可が必要なのは姓の決定に関してであり、
婚姻関係を結ぶこと自体の是非ではない」という議論も成り立つだろうし、
筆者が言うほど違憲が自明のこととは思えない。
========
などと書いています。

日本のいまの民法の同氏原則は、婚姻の効力するか、
成立要件とするかの、ふたつの解釈があります。
夫婦双方の非改姓婚を認めよう、という立場からは、
同氏原則は、成立要件という解釈が採られるでしょうし、
家裁の認可が必要というのは、成立要件という意味付けを、
いっそうはっきりさせていると言えるでしょう。

同氏原則を、効力と解釈したところで、
婚姻と氏の決定が連動していることに、ちがいないし、
そこへもってきて、苗字の決定と婚姻を結ぶこととは、
なんら関係がない、というのは、ナンセンスな言い逃れとしか思えません。


また、日記では、婚姻のとき「証人」が必要なことも、
同じ理由で違憲になるはずだ、としています。
証人は、憲法の規定以上の、外的要件となっていると言えるでしょうが、
それが、さらに家裁の介入という、違憲立法が許されてよい、
という理由にはならないはずです。

また「証人」は、成人であれば、第三者でもなることができるし、
法律的な意味合いは、まったくないくらいです。
実質的な影響は、家裁の認可とくらべれば、はるかに小さいです。

日記作者は、「簡単に割り切れる問題ではないから、
白黒決着をつけることよりも、現在の社会における婚姻制度の意味を
議論することの方が重要だと私は思う。」などと言っています。
自分たちの主張が、違憲だと言われたくないので、
苦しまぎれに、問題を矮小化して、論点をそらしたいみたいです。

「私の視点」の寄稿者は、いまの民法には
イエ制度はなくなっていることを、根拠にしています。
これがイエ制度の否定だ、というなら、いまの民法や戸籍法に、
ふたたびイエ制度の概念を盛り込むことも、
考えなくてはならないでしょう。

そして、「私の視点」で述べられているのは、
認可を受けられるかどうかで、職業差別や、
きょうだい間差別を作り出すことの問題視であり、
「別姓は、個人の生き方のひとつとして、すべての男女に開かれるべき」
「差別なく認可するなら、申請はすべて受け付けることになり、
制度の意味がなくなる」ということです。

ところが、日記作者は、「私の視点」の寄稿者のような、
イエ制度の全否定は、思想信条に優劣をつけることになり、
それは、ダブルスタンダードだ、などとしています。

ようするに、根拠を上げて、まちがいを指摘しているだけなのに、
それを、相手の価値観の否定にすりかえて、
異なる価値観を尊重できないと、糾弾しているだけなのだと思います。
「私の視点」で、たまたまイエ制度を否定することを表わす
字句があったからでしょう、そこへ飛びついたのだと思います。
(ちなみに、この手口は、この日記作者や、そのシンパたちが、
うまく反論できなくなったときの、常套手段です。)


また現実には、「イエ制度に郷愁や愛着を感じる」人たちが、
イエ制度でしたげられてきた人たちを犠牲にし、
イエ制度に批判的な思想の自由を、奪ってきたことも、
言うまでもないことだと思います。

日記の言いぶんは、イエ制度支持者に対する、
不当な過剰擁護であり、既得権の廃止を、価値観の否定にすりかえて、
加害者を被害者に仕立てているとも、言えると思います。

02年11月20日の、「私の視点」は、
問題点が、よくまとめられていると思うし、
実際、家裁認可制案に批判的な推進派のあいだでは、
なかなか評判がよいものだというお話です。
それゆえ、家裁案なら、法案が提出できそうだと信じている、
市民団体にとって、とても目障りだったのでしょう。

(おしまいのところに、段落をわけて、
「国会議員に、年賀状やクリスマスカードを贈りましょう」と書いています。
都合の悪い指摘から、みんなの関心をそらそうというのでしょうか?)

「思想信条の自由ということ」なんて、
おおげさなタイトルがついた、この「感想」は、
前半はナンセンスだし、後半も、書いてもいないことを、
書いてあることにして、否定していると言ってもいいくらいです。

ところが、この市民団体のメンバーたちは、
「ご自身では、イエ制度を批判しているのに、自分と意見のことなる、
イエ制度を支持している人たちの価値観も、尊重している」
のように、受け止めてしまい、日記のほうに、
説得力を感じてしまうみたいですよ。

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