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ガチ理系の真髄には...

わたしが興味を惹いたのですが、こんなページがあります。
「ガチ理系」というのは、がちがちの理系人間くらいの意味で、
徹底して理系的な考えかたしかしない、とか、
理系的なものにしか興味を持たない、ということだと思います。
「ガチ理系の真髄に萌えろ!」
http://marineko.moo.jp/rikei.htm

ページ作者は、文系出身の女性で、「まりねこ」さまというハンドル、
『まりねこ文芸館』というサイトと、『fragment』というブログがあります。
紹介したページは、お知り合いの理系出身の男性と、
映画鑑賞のしかたについて、会話したことを書いています。


サイト作者のかたは、「私はストーリーの中で展開される
エピソードについて、そのときの主人公の気持ちとか、
人間関係のあり方とかに注目して感想を言うわけ」という、
ごくふつうの文学鑑賞的な見かたをしています。
ところが、対話相手の理系男性のかたは、「同じ映画見ても、
この特撮技術はすごいとか、これはどこで撮ったんだな、とか、
そういうことばかり見てる人もいるわけで」なのだそうです。

このあたりについての、わたしの考えは、サイト作者のほうに近いですよ。
映画も小説とおなじように、ストーリーを通して
伝えたいものがあるのですし、それが一義的なことだと思います。

もちろん、映画ですから、撮影技術も要素のうちですし、
どこを見ようとその人の自由だとは、わたしも思います。
「何も考えてないように見える」とまでは、わたしは思わないですが、
それでも撮影技術とか、そういったところだけというのは、
二義的なところだけ観ている、という印象がいなめないです。


ふたりの会話は、さらに人間の気持ちや感情に、
関心を持つとか持たないとか、そういったことになっていきます。
理系男性のかた、人間のことに興味を持てないゆえんとして、
「どんなに泣こうが喚こうが、1メートルは1メートル」
「どこでもいつどんなときでも通じる、不変の真実」というのが、
自分たちの暮らしている世界だからだと言うのです。

ページ作者の女性のかたは、このとき「1メートルは1メートル」
というのを聞いて、すっかり「感動したよう」になってしまいます。
「崇高な真実がそこにあるような気が」して、
「非情な世界をサバイヴして生きている」というのです。
くわしいことは、リンクさきをご覧いただくとして、
「ガチ理系」の諸氏は、もっとこうした世界のよさを、
伝えるべきだと、おっしゃっています。

ところで、たんぽぽはというと、「1メートルは1メートル」と
言われても、感動もなにもしなかったのでした。
いきなり醒めていて、ページ作者のかたのせっかくの感動を、
わかちあえなくて、もうしわけないかぎりです。
はじめから出鼻をくじいてもいるようで、さらに恐縮です。

もちろん理系とは、「1メートルは1メートル」の
「不変の真実」を探究する世界だ、というのはわかります。
また、そういう世界がたまらなく好きだ、というかたが
いらっしゃるのも、じゅうぶん理解できることです。

でも、わたしが、その場にいたら「そういうのも大事でしょうけど、
そればっかりというのは、やはり偏っているんじゃない?」
くらいのことは、反論するかもしれないです。
どうも「専門ばか」っぽいものを、わたしは、感じるのでしょう。(注1)

やはり、たんぽぽは、人間の気持ちや感情に、関心がまわってしまいます。
政治の記事や歴史の本を読んでも、出てくる人物の、
パーソナリティやら感情やらを考えてしまうし、
そこまでわからないと、わかった気分にならないところがあります。
そもそも、ウェブをはじめたときも、恋愛相談という、
まさに人間の気持ちを読むことを、やっていたのでした。


なんで、わたしは、こうなのかと考えてみたのですが、
原因のひとつとして、人の気持ちや考えを理解することが、
切迫した事情に、わたしはあるからかもしれないです。

さきの対談の理系男性のかた、「人間の気持ちとか考えなんて、
そのときそのときで変わっていくし、相手のバックグラウンドも
全然違うんだから、あれこれ議論してもどっちが正しいとか、
どうすべきとか導けない」ので、興味がわかないと言っています。

わたしは、こうした考えに、あまり共感できないのでした。
立場の弱い人間は、悪い人間や不誠実な人間から、
身を守るためにも、他人の気持ちや考えを、見抜く必要があるからです。
(子どものころ、問題家庭だったとか、いじめられっ子だったりすると、
小さいころから、まわりの人間の顔色を伺うので、
みょうに人の気持ちや考えが、わかるようになったりするものです。)

わたしも、いろんなところで、社会的弱者だったので、
「他人の気持ちや考えに、関心を持たずにいられる」と言われると、
悪い人間や、不誠実な人間に対して、警戒をしないでもいい、
ある意味しあわせな人なんだなと、思ってしまいます。(注2)
それで相容れないところが、あるのかもしれないです。


(だめだ、たんぽぽは、「ガチ理系の真髄」には、萌えない...)

ところで、さきにご紹介したページですが、こんなことが書いてあります。
========
もう「これのどこが『理系のため』やねん、
オマエ、理系魂なんかちょっともわかっとらんやないか」と、
ツッコミどころ満載の「理系のための恋愛論」なんて恋愛指南を
ダラダラ書いてる酒井冬雪に、この会話を聞かせてあげたかった。
========

この『理系のための恋愛論』という本ですが、
おなじようなお話が、じつは出て来たりします。
「男性が賢さを見せるときのさじ加減」(55-61ページ)という節で、
映画のお話となると、ストーリーや登場人物の気持ちより、
撮影技術がどうしたとか、監督はだれだとか、
そんなことばかり言う男性が、まさに例示されています。


会社の同僚たち数人で、居酒屋へ飲みに行ったとき、
映画のお話になるのですが、「カメラワークが凝り過ぎ」とか、
「つなぎ合わせのフィルムみたいだ」とか、批評をやるのでした。
そのうちに、マイナーな外国の映画が出て来たりして、
みょうにマニアックな議論になっていきます。

ひとりだけ女性のかたがいたのですが、お話についていけなくなり、
「監督がどうの、技術的にどうのって詳しいのはいいんだけど、
そんな雑誌にも書いてあるようなうんちくとか
議論ばっかりいってる人と映画を観に行っても
あたしは楽しめない気がする」とすっかり閉口してしまいます。

わたしも、その場にいたら、この女性と同じ気持ちになりそうです。
どこかに書いてあるような、うんちくばっかりというのは、
どこか「学校秀才」「知識量秀才」的な感じがして、
かえって薄っぺらいと、わたしは思うかもしれないです。


酒井冬雪氏が言いたいことは、男性がアピールしたい「賢さ」と、
女性が男性に期待する「賢さ」は、往々にして「ずれ」があることです。
男性というのは、えてして「何かに対して語りまくり、
批評しまくることで賢さをアピール」したがるようです。

映画の会話していた男性陣たちは、「観る価値はなかった」
「つまらない映画だ」という結論に、いつもなっていきます。
はたで聞いていた、女性のかたは、「たくさん観ているけど、
どれもつまらないのかな?」と疑問を感じてしまいます。
そのうちに、「自分の好きな映画のことを言ったら、
どんな酷評をされるんだろう?」と、戦々恐々としてしまうのでした。

なにかを批判すると、その対象を超越した気分になって、
賢い気がしてくるし、すなおに賛成や共感をしめすと、
なんだか単純で、あたまが悪そうな気がするのかもしれないです。
とはいえ、なにからなにまで反対、ということはないはずですし、
なにかというと批判ばっかりは、「エピゴーネンのお気楽さ」の感、
なきにしもあらず、です。

ちなみに、『理系のための恋愛論』という本の結論は、
自分のアピールにこだわって、肝心な相手の女性の気持ちを
見失なうことにもなるし、「文句ばっかり言っている」という
印象も与えかねないので、「うんちくや批判で、
賢さをアピールするときは、さじ加減が必要」となっています。

  • (注1)これについては、 「若いころは自然科学一辺倒だったけれど、
    ある程度おとなになってから、人文科学や芸術に興味が出て来た」という
    リチャード・ファインマンや、森毅のほうが、わたしは好感が持てます。
  • (注2)それとも、こういう人たちは、悪い人間や、不実な人間に
    いやな思いをさせられたので、人間が信用できなくなって、
    絶対裏切らない「不変の真実」とか、他人を寄せつけない
    「マニアックな世界」に、関心を持つようになったのかな?

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