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人間は愛する葦である

人間は愛する葦である

わたしは、恋愛や結婚を、子どもを作ることを
前提とした上で語ることに、違和感があります。
おなじ違和感や拒否感をお持ちのかたも、
すくなからずいらっしゃるだろうと思います。

実際、結婚しても子どもを持たないかたもいます。
また、不妊症で子どもを作れないかたもいます。
さらには、異性愛者だけでなく、同性愛者もいます。
恋愛や結婚を、子どもを作ることを前提として
語ることは、これらの人たちに対する圧力として
働くことにもなるでしょう。


ところが、こうしたかたたちも、恋愛感情というものを、
持っていることはたしかだと思います。
つまり恋愛感情とは、子どもを作ることと関係なく、
備わっている、ということになります。

無性愛者がいるのかどうか、わたしはわからないです。
しかしおそらくは、ほとんどすべての人に、
恋愛感情なるものはあるように思います。
結婚しない人や、恋愛に興味がない人もいますが、
諸事情でそうしているだけで、
恋愛感情自体がないのではないようです。

人間はなにかの事情で子どもを作れなくても、
だれかを愛する心は持っているのだろうと思います。
また人間は自分の意思で、愛する人との子どもを作らない
選択もできるようになっています。

「生物の個体は、遺伝子が自己複製するための乗り物」
なんて言った生物学者がいます。
ところが人間は、「遺伝子の乗り物」という立場と無関係に、
他者を愛することができるというわけです。


生殖のともなわない恋愛や結婚というものがある、
あるいは恋愛や結婚はしても、子どもを作るか作らないかを
みずからの意思で決められる、というのは、
多分に人間らしい「特権」なのかもしれないですよ。(注1)

そして、生殖と関係なく人を愛せるという
「特権」が人間にはある、という考えを
推し進めていけば、子どもを持たない人たちへの
ライフスタイルの介入もなくなるでしょう。
また、子どもが作れない人や、同性愛者への圧力も
なくなることになるだろうと思います。


このように考えると、「愛の力」というのは、
だれにでも持ち得るもので、しかもさまざまな
差別に抗することができそうで、
じつはすばらしいものなのではないか、という気がしてきます。

「人間は考える葦である」と言われますが、
おなじように「人間は愛する葦である」とも言えるように、
わたしは思うのですが、いかがでしょうか?

(注1)
本当に人間だけなのかどうかはわからないです。
人間以外の生物でも、生殖を伴わない配偶者の獲得はあるのかもしれないです。
ただ、人間に顕著であることはたしかなので、
「人間らしい」と言うことに、語弊はないだろうと思います。

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