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林道義氏の進化論(4)
林道義氏、ふたたび反論
さらなるとんでもの上塗り

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『道義リンクス』のひょみ氏に、批判されているのを見つけた
林センセイ、さっそくのように、再反論をしています。
「4 氷見真一氏の「道義リンクス」への反批判」
http://www007.upp.so-net.ne.jp/rindou/fusei4.html

「批判の仕方はきわめて卑怯卑劣」とか、
「恐ろしく独断的かつ幼稚」とか、「マザコン的な人格未熟」とか、
「屁理屈を使って難癖をつけているだけ」と書いていて攻撃的です。
ほかにも、「大目に見て下さいは甘えだ」とか、
どうでもよいところに、過剰反応したりもしています。
気に入らないものに、当り散らしているだけという感じですね。

林センセイ、内心では痛いところをつかれたと、思ったのでしょう。
程度が低いとかわめいていますが、おそらくは虚勢でしょうね。
自分の著作が、4冊になったことを示して、
「具体的批判をするのは社会的義務だ」なんて言っています。
このさき、なにを言われるのかと、気になるのかもしれないです。


また、林センセイ、「匿名だから卑怯だ」とも言っています。
しかし、ひょみ氏は、プロフィールや、
「ことの起こり」で、かなり自分のことを書いています。
ネットの世界で「匿名」とは、つぎのサイトのようだと思いますが、
この基準でいけば、ひょみ氏はじゅうぶん「匿名でない」と言えます。
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/keijiban/Anonymous.html

だいたい、名もない一市民が、実名を明かしたところで、
だれだかわかることもないし、プロフィール以上の情報は得られないです。
ひょみ氏くらい、自分の個人情報を書いているのに、
「匿名だから卑怯」と言われるのでは、一般の人たちはだれも、
有名人の批判ができなくなると思います。


ひょみ氏も、内容のない人格攻撃と思ったようです。
林センセイ、ぜんぜん反論できないなと、見て取ったのでしょう。
つぎのように、まともに相手にせず、受け流しているのでした。
http://www.ne.jp/asahi/hyo/tadaon/michilyn/update.html
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見も知らない人に対してよくもこれだけ勝手に決め付けて
人格攻撃ができるものだなーと感心するばかりです(笑)。
これって精神分析なんですか? 是非同業の方の見解をお伺いしたいところです。
なお、内容的には敢えて検討または反論するに値する点は
ありませんでしたので、当方記事は一切修正・追記致しません。
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林センセイは、これを見て、ますますむかついたようです。
「付論  氷見氏の「人格攻撃」について」を書き加えて、
さらに激しい人格攻撃を展開しているのです。
「なにも言えないのは反論できないからだ」といきまいて、
「勝利宣言」していますが、これはこうした場合の常套ですね。

相当に威嚇したつもりでいて、へこたれるとでも思ったのでしょうか?
ひょみ氏が、取り乱したふうもないので、取るものも取りあえず、
からかわれた気分になったのかもしれないです。
なんだか、できの悪いコントのようで、大笑いしてしまいます。

やはりひっかかるのでしょうか、林センセイの反論は、
進化論のところに記述が多く、重点が置かれています。
問題の「獲得形質が遺伝する」ということについては、
「3 「遺伝子の中に取り込む」とはどういう意味か」で述べています。
========
すなわち、生物の進化は、先行する形態の中から、
生存に有利な遺伝的性質をもらい、それに他の新しい
遺伝的性質を加えるという形で進行するという理解である。
つまり遺伝的性質は人類なら人類という種が成立したときに
すでに最初から備わっていて、途中で獲得するという確率は
非常に少ない(皆無とまでは言えないと思うが)と理解しているのである。
========

なにが言いたいのか、よくわからないのですが、
人類という種ができてから取り込んだのではなく、
最初から取り込んでいた(人類の祖先がすでに取り込んで、
人類に進化したときは、すでに備わっていた)ということのようです。

獲得形質が遺伝しないのは、どんな生物でもそうですから、
人類という種になっても、そうなる前の祖先でも同じことです。
遺伝子を取り込んだ時期のことを、どう強調しても、
反論になりようがないことは、わかるでしょう。


林センセイ、獲得形質の遺伝についても、異論があるようで、
かっこ付きでつぎのように、付け加えています。
========
(獲得形質の遺伝という個人レベルの話でなく、
社会的大量的に遺伝的性質が新しく獲得される確率を
かなり高く評価したのがアーサー・ケストラーである。
後述の私の他の著作からの引用を参照のこと)
========

「後述の私の他の著作からの引用」を見よとあります。
ページの最後の「資料」で、『ユング思想の真髄』(朝日新聞社)という、
ご自分の本の、p.136〜141を引用しています。
「資料:他の著作で、私が進化について述べている箇所からの引用」

言わんとしていることが、わかりにくいかもしれないですが、
「経験の集積」と言って、1個体ではなく、多数の個体が、
同じ経験をすれば遺伝もありえる、ということのようです。
========
ラマルクが考えていたのは、個々の経験が遺伝する
ということであったのに対して、ユングの「経験の集積」というのは、
人類に大量的に存在している同じ類型の経験が遺伝子化するという事態である。
個々の経験がすぐ次の世代に遺伝することはまずありえないが、
しかし大量的につねに存在している経験ならば
遺伝子化する可能性を否定しきることはできない。
========

前のページでお話したように、「進化」というのは、
突然変異で、遺伝子DNA分子の塩基配列が変化して、
たまたま環境に適したものが、自然選択で子孫に残ることです。
たくさんの個体が同じ経験をしても、DNA分子は変化しないのは、
変わりないですから、「経験の集積」とやらも、
遺伝子に取り込まれることはないです。

また、林道義氏は、「その後の経験に適合的な
原パターンを目的論的に持っていた」とも考えています。
突然変異も、自然選択も、DNA分子の偶発的な変化と淘汰ですから、
「環境に適応したい」のような、生物の意志は入りようがなく、
「目的論的」に遺伝子を持つことも、ありえないことです。

「これを読めば、私が進化論について何を考えているか、
個々人における「獲得形質の遺伝」などという
水準のものでないことは明瞭であろう」と、
林道義氏は、勝ち誇ったように書いています。
ところが、さらなる進化論への無理解と、トンデモぶりの発揮を、
「明瞭」にしているから、もう大爆笑してしまいます。


ところで、林道義氏のページの、このくだりには、
アーサー・ケストラーと、今西錦司の名前が出てきます。
これらの人たちは、いったいなにものなのでしょうか?

どちらの進化論も、「突然変異」と「自然選択」だけで、
生物進化が起きるのではなく、生物の意志や働きかけもあるというものです。
アーサー・ケストラーは、多数の個体による生物の経験が、
遺伝するという、独自の進化論を提唱していました。
また、今西錦司は、生物は環境を認識できるから、
適応できるという、「今西進化論」を唱えていました。


ケストラーや今西のころは、DNA分子は見つかっておらず(注1)、
メンデルの遺伝の法則や、ダーウィンの進化論は、すでに生物学で、
受け入れられてはいましたが、まだ疑いをはさむものもいました。

生物は、あまりに複雑で、精巧なからだの造りをしていて、
しかも彼らの生活する環境に、とてもよく適応しています。
こうしたものが、偶発的で目的のない、「突然変異」と
「自然選択」で生じるとは信じられず、なにか意図を持って進化したと
考えたくなっても、無理もないかもしれないです。

ところが、「遺伝子」が、「DNA分子」という実体を持ったものであり、
しかもそれは、意志など持ちようのない、化学物質であることが、
あきらかになると、偶然だけで起きる、メンデル式遺伝や、
ダーウィン進化は、もはや疑うべくもないものとなったのでした。

ようするに、ケストラーや今西の進化論は、
いまでは誤りであるとわかって、すでに捨てられた学説です。
科学史にくわしいかたでしたら、これらの名前を見ただけで、
その人の進化論のレベルがどの程度なのか、すぐにわかってしまうでしょう。

参考文献、資料
  • (注1)
    ケストラーが、独自の進化論を述べた著書、
    『機械の中の幽霊』は、1967年に出版されたものです。
    これはDNA分子が、よく知られた二重らせん構造であることを、
    ワトソンとクリックがつきとめただいぶ後で、
    DNA研究は、すでにおさかんになっていたときでした。

    ケストラーは、理工系の出身ですが、
    ジャーナリストであって、研究者ではありません。
    しばらくぶりに、自然科学に関心が戻ったので、
    知識がむかしのままで、古くなっていたのだろうと思います。

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