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反対派の精神構造と思考構造
過少評価される反対派の抵抗

民法改正の反対派とは、なにを言っても聞く耳持たない
頑迷な人たちで、すこしの妥協もしない、じつに不寛容な人たちです。
しかも、強力な支持基盤を持ち、国政の中枢で力をにぎっています。
このような反対派には、たくさんの警戒を払い、
批判を集中させ、すこしでも弱体化をはかるのが、
当然のことだろうと、これをご覧のかたは思うことでしょう。

ところが、民法改正の推進派というのは、
この反対派の抵抗を過少評価する傾向にあるのです。
それどころか反対派のことなど、「見えていない」きらいもあります。

選択別姓の導入なんて、常識的に考えてなんら問題ないですから、
理解できない人がいることが、信じがたいでしょう。
ましてや、導入反対という既成の結論にしがみついて、
なりふりかまわず不毛な議論を延々と続ける人がいるなんて、
とうてい考えられないことだと思います。

「とんでも」の批判をまともにしたことがあれば、
こういう人の実在は、とてもよくわかることです。
ところが、民法改正に関心がある中で、「とんでも」の扱いかたに、
くわしいかたが、そんなにいるはずもなかったのでした。
彼ら彼女らにとって、反対派の抵抗が、想像を絶するものであっても、
無理もないのかもしれないです。


推進派の多くが取った戦略は、「反対派以上に自分たちが
大きな声を上げて、選択別姓の必要性を訴える」というものでした。
「民主主義なのだから、法改正賛成の声が大きくなれば、
反対論者もそれを受け入れる」と、考えていたのでしょう。

もちろん、そんな「紳士協定」を守る反対派であるはずもないです。
彼ら反対派というのは、法務部会でおたけびをあげて、
議論を破壊することに代表されるように、
法案成立の邪魔立てのためなら、可能であれば、
きたない手を使うことも、辞さない連中だったのでした。

反対派を批判することに、興味を持たないだけならともかく、
反対派批判は悪いことだと考える、推進派もいたりします。
それでも、自分だけで避けるなら、どうぞご自由にと言えなくもないですが、
ほかのかたが、反対派を批判しようとするときまで、
押さえ込もうとするから、いやになってしまいます。

推進派は通常、「多様なカチカンの尊重」という
お題目を標榜しているので、これが反対派批判を、
「絶対悪」と決めてしまうことに、とても役立ちました。
どんなものであっても、反対派が批判されると、
「反対派のカチカンの否定」だと決めつけて、封殺するわけです。

これは、わたしが、むかしおつき合いした、
インターネットの市民団体がよくやっていたことでした。
電子掲示板でも、反対派に批判的な雰囲気ができると、
「そんな無駄なことをしていないで、自民党の議員さんたちに、
選択別姓の必要性を伝えなさい」と、よくしかりとばしていました。


また、推進派にとって、反対派を批判するというのは、
政敵の邪魔立てをするためだけの活動に、感じるのかもしれないです。
「政敵なんて妨害してなんぼでしょ?」というかたでしたら、
こう言われても、なにがイカンのか、わかりにくいかもしれないですが、
市民派タイプのかたは、こういう「釘を刺す」ためのアクションは、
ケシカランと考えて、忌避することが多いみたいです。

こうした態度を、推進派たちが続けると、
反対派に対して、なされるべき批判がなされなくなるだけでなく、
不必要に反対派が付け込む隙を作ることになります。
これは反対派にとって、歓迎することなのは、言うまでもないでしょう。

「わたる世間はオニばかり」とは言わないけれど、
世の中には、いい人ばかりでなく、悪い人もどこかにいます。
目的のためなら、あくどいことをする人だっているでしょうし、
こちらから善意を向けても、悪用されることもあるでしょう。
政治がからめば、なおさらそういうことは多いと思います。

さらに言えば、そういうきたないことをする相手には、
こちらからもたまに、きたないことをしてあげると、
いいことがあるというのが、わたしの率直な考えです。
「手段を選ぶ」なんて贅沢をしていると、効果がないどころか、
相手につけこまれることにも、なりかねないでしょう。

こんなことは、あたりまえだと、ずっと思っていたので、
上述のような、推進派たちの反対派に対する対応が、
わたしは、なかなか理解できなかったですよ。


どうやら推進派というのは、目的のためなら手段を選ばないとか、
相手の善意を平気で悪用する、悪い人間がいると思いたがらないようです。
推進派のみなさんは、そういう警戒するべき人間と、
わたりあったことのない、純粋なかたたちなのでしょうか?

本当に、ドメスチックに上から押さえ付けられるとか、
危険な人間とかかわって苦労したことがなく、信用できない人が、
どこにいるかわからないと、身構える必要のあまりなかった、
わりあい幸せな人たちなのかもしれないです。

しかも、「悪らつな相手でも、話せばかならずわかる」と信じていて、
自分たちが粘り強く説得すれば、いつかかならず理解するという、
わたしに言わせればありえないような「美談」が、
推進派のみなさんは、大好きみたいです。
こういう推進派の精神・思考構造が、反対派の危険を
過少評価する原動力となっているのでしょう。

反対派の実態が見えなくなった人の行き着くところで、
もっとも危険なのは、「民法改正が実現しないのは、
推進派がていたらくだからだ」と、お門違いのバッシングに走ることです。

いかんせん、こういう人は、反対派の抵抗の強烈さが見えず、
説得なんて簡単にできると信じて疑わないですから、
反対派がいつまでも考えを変えないのは、
推進派がなにもしていないからだと、決めてしまうことになります。
進捗がぜんぜんないことも、あたかも推進派が、
なにもしていないかのように、思わせるのに役立つようです。

また、こうした人は、とくに自民党の政策決定システム
(法務部会の事前審査に代表される)を、よく知らなかったりします。
それで、法案提出のプロセスを、実際以上に簡単と思って、
推進派が「なにもしていない」ように見えるのでしょう。


こうなったらもうおしまいで、だれに圧力をかけられるともなく、
自発的に推進運動は崩壊することになります。
これこそ反対派にとって、最大の利益にほかならないです。
かくして、「正しいことを主張すれば、いつかかならず
受け入れられる」という考えは、「戦略が悪ければ失敗する」という
認識と入れ代わって、幻想と化していくのでした。

でたらめなことをしていても、要領よく相手を利用したり、
きたない手段もうまく使ったりすれば、自分の望む事態が作れるみたいです。
上述の「美談」が好きだったり、「カチカンの尊重」とか
言っている人たちは、まさしく格好の「かも」でしょうね。
「憎まれっ子世にはばかる」「渋柿の長もち」です。

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